JR東日本での歩み
東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)
小さい頃から念願であった電車の運転士を経験することができ、喜びを噛みしめました。
駅員、車掌、運転士をする他に企画系の仕事を経験し、鉄道利用者だけでなく企業や自治体の方々とも関わる機会をいただきました。
列車は運転士の力だけで運行しているのではないことを改めて痛感しました。
会社で言えば切符を売る人、車両を整備する人、列車の運行を管理する人など多くの人の力で日々列車は運行しています。
それだけではなく駅のお店や施設、それらを管理する機関、計画する機関・・・
数え切れない人々が関わっていることを知りました。
新型コロナウイルスが流行し始めた頃、私は運転士でしたが、初めて自分の運転する列車の乗客が0人であったのを経験しました。
未知のウイルスへの不安も大きく、同時に鉄道をはじめとする経済への不安がよぎりました。様々な政治家の方々が政策を打ち出し、市民も対策を行ったことで完全に感染をなくすまではいかないものの、ようやく兆しが見えてきました。
コロナ禍になってから乗務員以外の世界も見えるようになり、政治家の政策が世の中に大きな影響を与えるのを強く感じるようになりました。

福島県では2011年に豪雨により不通となっていた只見線の復旧・再開に僅かながら携わりました。沿線自治体の方とも関わりを持ち、鉄道に対するまちの強い想いを感じました。イベント開催の際は街宣車で町内のみんなに伝えるからと言っていただいたことに感銘を受けました。2022年10月の全線運転再開の際は、初日に車両トラブルがあり大幅に遅れが発生したにも関わらず、地域の皆さまは沿線にたくさん集まってくださり大きく手を振って歓迎してくださいました。

山形市政の刷新を目指して出発進行
高校卒業後、新潟県4年、宮城県5年、福島県4年と他県に居住し山形を外からみてきました。
学生時代、会社員時代に人を山形に誘うと「山形に何しに行くの?何もないじゃん」とよく言われました。
遊ぶ場所がない。働く場所がない。残念ながら高校卒業当時の自分もそう感じ、いったん山形を離れました。

正直に言って、なぜ山形が好きなのか問われると「地元だから」という理由が大半を占めます。
私が山形を離れた当時から時間も経過し状況も一変しましたが、依然として高校卒業や就職場面での若者離れが止まりません。市は以前より少子化対策を行っていますが、子供の出生以前に若者離れを食い止める、またはUターンで山形に戻ってもらう必要があると思います。
生活する上で楽しみなイベントを作りたい。県外から来た人が必ず訪れる観光地を作りたい。それにより、気持ちや能力はあるけれど叶わなかった若者の山形居住を実現したいと思いました。
山形以外の人が見ても魅力あるまち、自分の力を発揮できるまちを目指します。
